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過去に執筆した原稿の中から ~アメリカンモータースポーツシーン 99年7月号~

クルマはもっと楽しいはず

Wake Up !

ここに掲げたのは、オートスポーツ誌のワールドフォーラム用にボクが書いた原稿だ。といっても、今から3年あまり前のこと。96年1月15日売りの号に掲載されたものだ。時間は経ち、既に同誌の編集長は2代変わり、今やワールドフォーラムという頁もない。

またまた古いファイルからの原稿を再利用(?)すると、密かにAMSを読んでいる(らしい)口さがない連中が、また「トム、手を抜くんじゃないヨ」って言ってくるんじゃないかと思う。が、反論するわけではないが、古いファイルの内容が今でも通用するほど、「日本のレース界は変わっていない」とも言える。日本のレース界の将来に期待する意味で、誹謗を承知で黄ばんだファイルを再利用する。

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読者諸君はオートスポーツ12月15日号のホットラインを読まれただろうか。熊谷編集長が個人的な意見や提案を記している頁だ。読まれた方はどんな感想を持たれただろうか。

ボクはこのホットラインを読んでいたく感動した。それは、編集長が両ケンジ選手の応援にアメリカに来たからでも、グラスルーツのドラッグレースを視察したからでもない。ただひとこと、最後から4行目に「安い費用で走れることが大前提」と書かれていたからだ。

「なんだそんなことか」と思う人もいるだろうし、「レースは金がかかって当たり前」と言う人もいるだろう。でも、ボクは感動した。

なぜなら報道の立場にある人、しかも編集長という職にある人が、これまた公器たる雑誌に、「(レースを楽しむためには)まず安価であることが必要」と書いているのだ。

レースに関わるようになってもうすぐ30年になるが、今まで公の場で関係者から「安いことはいいこと」と聞いたことはついぞなかった。レースはクルマと言う高価な道具を使う競争だから、他のスポーツに参加するより費用がかかる。だからレースは高くて当たり前という風潮がある上に、人より速く走るためにはより多くの予算をつぎ込むことが是とされているからだ。

何事も程度問題だと思うのだが、画一的な日本のレース界を支配してきたのは、"レースに金がかかるのは当たり前。金が用意できなければレースをやる資格なし"と言う、特権意識の裏返しである差別に他ならない。
「安ければ自分にも手が届く」という人がいっぱいいるのに、何をか言わんや、その人達までもが高価でかつ上級志向のレースを礼賛してきた。

安いレースが実現した時の効果が考えられたこともなく、日本のレース界には金をかけることが立派なことだという雰囲気が満ちていた。だからこの熊谷編集長のホットラインは、日本のモータースポーツに対して重要な示唆を含んでいると同時に、日本のレースが大衆化するための大切な礎にもなり得るのだ。

「そんな大袈裟なものではないヨ」と編集長は言うかもしれない。しかし距離を置いて日本のレースを見るようになってから16年が経ち、関係者以上に日本のモータースポーツのあり方を客観的に見られる立場にいう者からすれば、極めて重要なことだ。関係者ならなおさら、本音でボクの意見に反対を唱えることができる人は少ないと思う。

80年代終盤。ほとんどの時間を日本で過ごした2年あまりの間にレース場で見たものは、全てがF1という座標軸で評価される単機能、画一的な競争だった。

まずF1があり、F3000があってF3があって、FJ1600があった。が、そのどれもが個々の意味合いを吟味されることもなく、ただただ擬似F1でありF1ジュニアであり、そしてマイクロF1だった。パドックは、その方向を少しも疑わずに邁進する空気にあふれていた。

常に自分の等身大の範囲でレースを楽しむことを信条としてきたボクは、大いに戸惑った。息苦しかった。もう日本のレース界では生きていけない、と暗澹たる気持ちになった。

しかし89年暮れにアメリカで再開したSCCAのクラブマンレースは、改めて自信と目標を与えてくれた。そして、アメリカの自由闊達なレースをつぶさに見て味わい大いに楽しんだ自分の経験を、そのまま埋没させてはいけないと思えるようになった。

幸い、アメリカンモータースポーツが注目されていない時も、熊谷編集長はよき理解者だった。徐々にだが、アメリカのレースの数々を紹介し、ボクの意見を伝える機会が増えていった。同時にヨーロッパ一辺倒だった日本のレース関係者がアメリカに目をむけ始めた。そして、ボクはここ数年の日本のレース界にいい雰囲気が生まれる兆しを感じるようになった。

ボクは、アメリカのモータースポーツが世界で最高と思っているわけではない。アメリカのレースにも問題はあるし、規模が大きいだけに表面に現れない政治的な駆け引きや交渉ごとは日本人の想像をはるかに超える。

ボクは、安価なレースだけが本当のレースだと主張するつもりはない。いち参加者としては安いにこしたことはないが、高価なプロのレースを観客として楽しみたいのも事実だ。

ただ、ここに住んでいて恵まれていると思うのは、何にでもどんな分野にでも消費者の選択肢が豊富にあることだ。

アメリカのスーパーマーケットで売っている豚肉は高くてまずいが、豚肉料理がポピュラーなベトナム街の店に行けば極上の豚肉が安く手に入る。逆に牛肉はふつうのスーパーマーケットの特売日に買うと、信じられないくらい安い。野菜は中国人の店、魚介類は韓国人の店で買うのがお勧めだ。

例えは違うが、ちょっと遠くのベトナム街へ行く労力さえ惜しまなければ、とてつもなく旨いトンカツを味わうことができる。多少の努力を惜しまなければ、自分が望む以上のものが手に入る。そんな構造が機能しているのがアメリカだ。安くて手軽なレースがあると思えば、ビジネスとしてしか成功しないレースがある。全ては個人の選択にあり、それを実現するかどうかは個人の努力次第、という環境が整っている。

21世紀にはおそらく、遅かれ早かれ個人がかってのようにクルマを楽しむのには不都合な時代が来ると思う。自動車ますます技術は発展を続けるのに、だ。飽和状態にある自動車産業が、消費者個人の嗜好に配慮できる時代はとっくに終わっている。社会的環境を考えれば、移動の手段としてのクルマと個人の関係は希薄にならざるを得ない状況にある。

個人がクルマを通して得られる楽しみは、確実に減っている。しかし、それでもクルマは売られつづけるだろうし、消費者はその人なりの憧れを込めてクルマを買いつづけるに違いない。

一方、市民生活の中のクルマにとって不遇の時代になろうと、モータースポーツまでが否定されるとは思わない。むしろ、存続が可能な個人とクルマの接点のひとつとして、社会的、経済的に重要な位置を占めるはずだ。

しかし、それにも条件が必要だ。
アメリカのごまんとあるレースのカテゴリーも、浮き沈みを繰り返してここまで成長してきた。純粋なビジネスの観点からの淘汰もあった。2度のオイルクライシスもあったし、不況も経験した。

が、いまだに脅威の発展を続ける間口が広く奥行きも深いアメリカのモータースポーツは、全てをことごとく飲み込むことができた。

その伝で言えば、日本のレース界も個人の手に余るほどの選択肢を与えられる環境を作ることを早急な目標に掲げるべきだ。そうでなければ、次の「自動車を楽しむことが困難な時代」を前に、レースという少なくとも公共性のあるスポーツは衰退するしかない。

むろん、個人の資力ではどうにもならないフォーミュラニッポンがあっていい。世界にはばたく夢を追う若者のためのFJ1600があっていい。

しかし、レースをやってみたいと感じた個人が、ボクがベトナム街へ出かけるのと同じぐらいの努力で参加できるレースも必要なのだ。あるいは、豚肉にこだわる必要も無い。牛肉で十分という人のために、歩いて買いに行けるほどの距離に手軽なレースが必要なのだ。

一般に、商品が売れるのは消費者が支持するからだ。支持する消費者を増やすためには、ます味わってもらうことが必要だ。つまり、レースという商品も、個人に味わってもらうためには、安くて旨いサンプルを用意する必要がある。

そんな環境さえ整えば、日本のレースにも他のプロスポーツに追随する可能性が生まれる。野球に広場でのキャッチボールからプロまでの道のりがあるように、モータースポーツのすそ野がひろがる道も生まれる。
そうなった時に重要なのが消費者。個人が何を選択するかだ。

消費者までもが憧れと現実を混同して安いものやイメージの低いものを否定し続けるなら、環境が整ったとしてもそれが機能するわけがない。

市場に商品があふれればあふれるほどに、知識を蓄え、自分にちょうどよい大きさの商品を選ぶことができる消費者だけが賢い買い物をすることができる。
擬似F1やF1ジュニアやマイクロF1が日本のレースの代名詞として容認されるのは、それらを支持する消費者にも原因がある。そろそろ、憧れではなく等身大のレースを探す努力がされてもおかしくはない。もちろん参加して楽しく、それでいてとてつもなく安くて旨いやつを。

ちょっと目先を変えて考えてみませんか。自分が参加するという前提で、日本のレース界を見まわして下さい。

探し始めさえすれば、近いうちにどこかの店頭にならびますヨ、きっと。